郷土を愛した俳人
石井露月

書斎の露月露月の住家

俳人「石井露月」とは

石井露月(いしいろげつ)(本名:祐治(ゆうじ))は、明治6年5月17日に、河辺郡女米木村で生まれた。 露月(ろげつ)は小学校時代から読書欲が旺盛で、学業成績も良く文部省から表彰されるほどで、6年生のときには俳句や漢詩(かんし)を作るようになっていた。

明治21年満14歳の春に秋田尋常(あきたじんじょう)中学校(ちゅうがっこう)(現在の県立秋田高等学校)に入学したが、 脚気(かっけ)になってしまい3年で中退を余儀なくされた。中退後は農業を手伝いながら健康を回復することに努めた。その後、露月は文学者になる志を抱き、明治26年に東京へ出る。

上京した露月は浅草の病院の薬局で働きながら文学の勉強に励んだ。そして、文豪坪内逍遙に弟子入りを願ったが、文学者になるには第一に天分があること、第二に一人前になるまで飯を食えるだけの財力が必要であることを聞かされ引き下がるしかなかった。

露月は深く落胆したが、その後、俳句の師である正岡子規と出会うことになる。子規に才能を見出された露月は、新聞「小日本」の校正係として採用され、子規のもとで俳句を学び文学に励んだ。後に先輩格の内藤鳴雪、同輩の河東碧梧桐、高浜虚子などに並ぶほどの進境を示した。しかし、初めての東京での生活で、再び脚気がひどくなり、療養のため帰郷することになる。

正岡子規と子規門下四天王 【 露月・虚子・碧梧桐・紅緑は子規門下四天王と呼ばれた 】
正岡子規
正岡子規(まさおかしき)
石井露月
石井露月(いしいろげつ)
高浜虚子
高浜虚子(たかはまきょし)
河東碧梧桐
河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)
佐藤紅録
佐藤紅録(さとうこうろく)

郷里での生活で健康を回復した露月は、再び上京し文学に励んでいたが、翌年28年夏、脚気を再発して帰郷した。医業への転向の理由についての明確な記録は残っていないが、この頃に医者になることを決意したようだ。露月は脚気回復後に東京へ行き決意を子規に伝え、医者になるための準備を整えて明治28年の年末、3度目の上京をして受験勉強に励み明治29年に前期の学科試験に合格した。その後は、新聞「日本」で仕事をしながら医学実技の勉強をして、明治31年の後期の実技試験に合格し医師免許(当時の医術開業免状)を取得した。そして、さらに医療技術を磨くために京都の東山病院で医員を務めて経験を積んだ。


石井医院前に立つ露月

露月は、明治32年に帰郷し石井医院を開業し、間もなく自村の戸米川村と隣村の種平村の村医となり、病人の求めに応じ昼夜を問わずに精勤した。そのかたわら句作にも励み俳句雑誌に投稿するとともに、指導者としても活躍している。

俳人としてあるいは医師として日々を過ごす中、露月は何よりも村が貧しいことに気づく。村の状況を改善するため、青少年の教育に着目した露月は、青年団や女米木小学校校友会、夜学会の運営に尽力する。明治39年には新たに青年会の組織に取り組み風紀の改善や貯蓄の奨励などを行った。明治41年青年団長になると郡内の青年団体の指導にも当たるのであった。

こうした露月の活動は、村民の意識を高め、意欲を刺激して村の発展を促した。村民の尊敬を一身に集めるようになった露月は、明治41年に村議会議員となるなど生涯にわたり村の発展に大きく貢献した。

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