雄和のまつり

大正寺おけさ
まつり

大正寺おけさ祭実行委員会
TEL 090-8781-7403
 代表 加藤

雄和地域に伝わる民謡「大正寺おけさ」は九州西海岸で生まれた「ハイヤ節」が元唄といわれています。
ハイヤ節の特徴は唄の中に「ハイヤエー」や「サーマ」が入っていることで、大正寺おけさの歌詞にも「オケサエー」「サーマエ」がありハイヤ節の流れをくむ唄とされいて、ハイヤ系民謡「大正寺おけさ」と呼ばれています。「大正寺おけさ」の伝播については、北前船などによって海路から運ばれ雄物川を遡上して大正寺地方に根付いたとされる「北前船~雄物川遡上説」が有力とされています。

【 お知らせ 】

「大正寺おけさまつりを開催しました!

  令和6年8月18日(日)にコロナ後初めての野外開催として、JA秋田なまはげ大正寺
 販売所駐車場を会場として、雄和の祭「大正寺おけさまつり」を開催しました。
  当日は、天候に恵まれ夕方には涼しく過ごしやすくなった中、約100名の踊り手の皆さ
 んが優雅でしなやかな踊りを輪になって楽しみました。
 
    

    

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梅秀さんのブログ

                                    

「大正寺おけさまつり」のはじまり

昭和59年、町内会の会合で、日本民謡集に「大正寺おけさ」という民謡が掲載されていて、大正寺地区が唄の発祥であることが話題になりました。当時、居合わせた地元小学校の教頭先生の話がきっかけで大正寺おけさの民謡について調べることになり調査活動に取りかかりました。昭和30年代の浅野善十郎氏が唄ったテープがあることが分かったものの、伴奏を含め演奏をできる人がいないことなどから復元する手段など暗礁に乗り上げかけていました。

民謡のことならと神ヶ村出身の浅野梅若師匠に相談したところ弟子の浅野和子さんが唄ったLPレコードがあることを聞き、「大正寺おけさ」への思いを話し師匠に唄と伴奏、踊りの振り付けをお願いし承諾を受けました。「大正寺おけさ」の唄で盆踊りを広めたいとのねらいから、地域の婦人会や子供会などに参加を促し理解と協力のもと大正寺小学校体育館で講習会を開催しました。

指導には、浅野梅若師匠をはじめ、梅若一行が伴奏、唄、お囃子、そして舞踊家の竹内あや子さんが創作した踊りを披露し和やかな雰囲気の中で講習がおこなわれました。

昭和60年8月13日、新波商店街で第1回の「おけさの郷の夏祭り」が開催されました。こうして、地域を挙げて取り組んできた新たなイベント「大正寺おけさまつり」が誕生したのです。

実行委員会では、民謡の復活を果たしたあと、更なる目標としてハイヤ系民謡としての発祥の地を探し始めました。
そして平成6年の「第10回大正寺おけさまつり」に、交流を重ねてきた長崎県平戸市一行を招き総勢500人の総踊りをおこないました。


当時のプログラム

平成6年の「ゆうわ広報」の表紙

「大正寺おけさまつり」の豆知識

【連】
踊りのグループの単位を「連(れん)」と呼び、連が一同に集まって踊りを披露することを「総踊り」と称します。


【2つの振り付け】
大正寺おけさの踊りは2種類の振り付けがあり、舞踊家の竹内あや子さんが創作した「竹内踊り」と、劇団わらび座の舞踊指導を担当していた清家久美子さんが創作した「清家踊り」があります。

■ 竹内踊り
竹内踊りは、曲の前奏から終わりまで同じ振り付けを繰り返すもので、優雅でしなやかな踊りで、緩やかな動作が特徴。
■ 清家踊り
清家踊りは、片足立ちのままピョンと跳ねたり、手をめいっぱい上に突き上げたりと活動的でスピード感のある動作が特徴。

【おけさの郷芸能文化祭】
おけさ総踊りのあとは、「芸能文化祭」と「花火」で締めくくります。

特別寄稿
大正寺おけさに思いをよせて

平戸田助港の捕鯨、まぐろ漁の繁栄。「はえー南風」田助港を出た船は北をめざす。南風(はえ)を待つ船人たちによって唄われた長崎平戸の「田助ハイヤ」や「牛深ハイヤ」が、北前船の全盛期、寛政年間から明治中頃にかけて全国に伝播されました。広島「三原やっさ」、徳島「阿波踊り」、島根「浜田節」、丹後「宮津節」、新潟「佐渡おけさ」、庄内「はえや節」、旧南外村の「釜坂おけさ」、「大正寺おけさ」、「津軽あいや節」北海道「江差餅つきばやし」、「南部あいや節」、「塩釜甚句」と「日本民謡」の7割りは、こうした「ハイヤ系」と言われております。

では、ハイヤの民謡がなぜ秋田市雄和地区に定着したのでしょうか。
雄物川の河川交通の要路、大正寺新波港は、大曲角間川の大保(だいぼ)の港や海の玄関口新屋港と並ぶ藩政時代の拠点港でした。

由利の玄関口、鳥海山麓と由利を背景地として栄えた新波。「新波」は古くは「あらぱ」と発音され、「舟で運ぶ」という意義をもつ交通の要路でした。「大正寺おけさ」の伝播については、北前船などによって海路から運ばれ雄物川を遡上して大正寺地方に根付いたとされる「北前船~雄物川遡上説」が有力とされています。

さて、九州に生まれた「ハイヤ」が新潟以北、なぜ「おけさ」になったのか。伝播事情を考慮しますと、「ハイヤ」がやってくる以前に「おけさ」が定着しており、そこへ「ハイヤ」の熱い調べが重なり「ハイヤ調おけさ」になったのではないかとも推論されます。

こうして新潟以北のハイヤ系民謡は、「おけさ」や「ハイヤ」が幾通りの線を描きながら融合しつつ伝播したと思われます。

大正寺おけさ保存会 工藤一紘